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南アフリカの歴史(10):植民地化と人種主義⑤  

前回の続き。


カラードの起源

 ケープ植民地の白人社会では、人口的には圧倒的に男性が多く、女性が不足していた。それを補う為にもヨーロッパから妻を呼んだり、オランダ本国から孤児の少女が集団で送り込まれたり、女性奴隷達もこの地にやってきた。

 しかし、それだけでは留まらず、多くの白人男性は使役するコイコイ人や奴隷の女性に性交渉を強要していく。また、オランダ東インド会社もケープタウンに女性奴隷を収容した慰安所を設け、女性達は船員達の性の餌食となった。その結果、白人と非白人の血が混ざった子供達、すなわち混血の人(=カラード)が多数誕生する。現在の南アフリカでカラードと呼ばれる人達の起源はここにある。

 ただし、生まれたきた子供達は原則として白人家庭には受け入れられなかった。

 カラードは、現在の南アフリカ全体では人口的に約9%程度(参照)であるが、ケープタウンのある西ケープ州や、その北に位置する北ケープ州では、州の人口の約50%がカラードであり、これらの2州では選挙戦でのカラードの動向及び集票がいつも大きなカギとなっている。

 また、現在の南アフリカの公用語(11言語)の中にアフリカーンス語という言葉があるが(参照)、これは元々はオランダ語にコイコイ人や奴隷の言葉が加わってできた混合語である。現在は、オランダ系(ドイツ系やフランス系も含む)白人(現在では、アフリカーナーと呼ばれる)と多くのカラードが、このアフリカーンス語を第一言語として使用している。現在のアフリカーンス語は、この頃から次第に形成されていく。

次回に続く。

参考資料:

■「南アフリカ」-虹の国への歩み(岩波新書) 峯 陽一 著
CapeConnected

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南アフリカの歴史(9):植民地化と人種主義④ 

前回の続き。

シモン・ファン・デル・ステル Simon van der Stel

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シモン・ファン・デル・ステル
出典:Tripod

 1679年、2代目のケープ総督として、シモン・ファン・デル・ステルが赴任した。彼は地理学者や調査隊を連れてやってきた。そして翌年、10万本のブドウの苗をコンスタンシア地区植え、更に60km東に「ワイン生産に最適な土地」としてワイン産業の中心の街「ステレンボシュ」を建設した。ステレンボシュという街の名はステルという彼の苗字から来ているが、後に南アフリカを代表する美しい街になっていった。

 ステルは、ヤン・ファン・リーベックよりもワイン生産の知識も豊富で成功していく。これまでは、ブドウが成熟すると鳥に食べられるのを恐れて十分に成熟する前に収穫していたが、ステルはブドウの成熟をチェックする機関を作り、各畑を訪問して熟成をチェックし、十分に完熟してから収穫するように指導して回った。

 1688年、フランス・ルイ14世の宗教改革による新教徒プロテスタントの弾圧(ナントの勅令)により、多くのフランスの新教徒(プロテスタント=ユグノー)達は隣のオランダに亡命する。それを知ったステルは、東インド会社を通じて少しでもワイン生産の知識がある農民をケープに移民してもらうように依頼し、1689年までに約200人のユグノー達がケープにやってきた。ユグノー達は、パールやフランシュック(フランス人の街という意味)に農地を与えられた。彼らはワイン生産の知識が少ないオランダ農民にワイン作りを教えていく。こうして、ケープのワイン生産は更に発展してくこととなった。ステルは、後に「南アフリカワイン産業の父」と呼ばれた。

 彼はまた、船旅で多くの船員が壊血病(ヴィタミンC不足が原因。当時は船員の半分くらいが船旅の途中で亡くなった。)などの病気になったため、ケープタウンに病院も建設した。

次回に続く。

参考資料:

■「Wines & Brandies of the Cape of Good Hope」Phyllis Hands & Dave Hughes著,Stephan Phillips(pty)Ltd.出版
■「The Complete Book of South African Wine」John Kench, Phillis Hands, David Hughes著, Struik Publishers出版
CapeConnected

南アフリカの歴史(8):植民地化と人種主義③ 

前回の続き。

移民と奴隷

 オランダ東インド会社にとってケープの地は、最初は新鮮な水や食糧を確保する補給基地でしかなかったが、次第にここに定住しようとする白人入植者が増え始める。ひとつにはオランダ人は、コイコイ人から牛などを交換してもらおうと考えていたが、コイコイ人にとって牛は最も大事なものであり権力の象徴でもあったため、オランダ人が思うように分けてもらえなかった。そこで、オランダ人の必要な物を分けてくれる人が必要になってきた。

 1657年、会社は9人の従業員との契約を解除し、土地を与えて自営農業に従事させ、彼らから食糧を買い入れることにした。その後も会社は従業員を解雇し、また、オランダからも民間の入植者を受け入れていった。その多くは、本国では下層に属する人達だった。

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出典:Brief History of South Africa

 民間の入植者の中には、オランダ人だけではなく、多くのドイツ人や少数のフランス人も含まれていた。フランス人の移民は宗教弾圧を受けてオランダに亡命したユグノー(新教徒プロテスタント)達であった。彼らは信仰心が厚く、現地のオランダ改革派の教義にも大きな影響を与えていく。そして彼らこそがケープのワイン産業の発展に大きく寄与していった。今でも地元のワイナリーには、ドイツ系やフランス系出身者も少なくない。また彼らは周囲と同化して日常的にオランダ語を話すようになった。

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出典:Brief History of South Africa


 移民が増えるにつれて、ケープタウンはオランダ風の建物が立ち並ぶ賑やかな港町として発展していく。ここでは、白人入植者は実力主義社会で貧しい階層出身でも成功することができた。
 植民地の建設にあたって、多くの労働力を必要としたが、コイコイ人がそれを拒否したため、リーベックは東インド会社に依頼して多くの奴隷労働を導入した。その多くは、インドネシア、マレーシア、インド、スリランカ、モザンビーク、マダガスカルなどの地域出身で、アジア系が多かったが言語や宗教は様々であった。彼らは大抵は白人家庭に分散させられ、農作業や家事労働に従事させられた。ここでは貧しい入植者でも奴隷の主人となることができた。
 ケープの先住民であったコイコイ人も後からやってきた入植者達に土地や家畜を奪われ、ほとんどが奴隷となっていった。

 18世紀初頭には、奴隷の数は自由市民の数を越えていたにも関わらず、奴隷達は相互に分断されていた状態だったので、集団で体制に反抗することは難しかった。


次回に続く。

参考資料:

■「南アフリカ」-虹の国への歩み(岩波新書) 峯 陽一 著
CapeConnected

南アフリカの歴史(7):植民地化と人種主義②  

前回の続き。

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ヤン・ファン・リーベック,出典:Brief History of South Africa

ヤン・ファン・リーベック Jan van Riebeeck

 ヤン・ファン・リーベックは、もともと外科医としてオランダ東インド会社に雇われたのだが、出世と金儲けが大好きで貿易にのめり込んでいく。1642年には対日貿易拡大を狙って長崎の出島を訪問している。

 その後1651年、32歳でケープの補給基地建設の指揮官に任命され、翌年の1652年に80名の部下と一緒にケープに上陸する(前回の話を参照)。

 ヤン・ファン・リーベックは、ワインの生産に関して非常に熱心な人で、彼がブドウの苗木をヨーロッパから持ち込んで南アフリカのワイン作りの歴史が始まる(1655年)。当時はケープタウンはヨーロッパとアジアを結ぶ航海の中継地点で、航海中の水やビタミン補給の役目として、ここでワイン造りが行なわれた。

 そして4年後の1659年、南アフリカで最初のワインが出来上がった。その時のファン・リーベックの日記が残っている。

1659年2月2日(日曜日)
ヤン・ファン・リーベック(40歳)の日記より。


「温かくて気持ちの良い天気。。。神様ありがとうございます。今日はケープのブドウで初めてのワインができました。そう、桶からすくったフレッシュなケープの新酒です。ワインはほとんどマスカット系で、他の白ワインも風味豊かで美味しいです。」 (クレインコンスタンシア社のサイトより)

南アフリカの最初のワインは白ワインから始まったようです。

次回に続く。

参考資料:

フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
■「南アフリカ」-虹の国への歩み(岩波新書) 峯 陽一 著
クレインコンスタンシア社のサイト

南アフリカの歴史(6):植民地化と人種主義①  

前回の続き。

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出典:Brief History of South Africa


白人の到来

1488年:

 ポルトガル人、バルトロメウ・ディアシュ(バーソロミュー・ディアス)らが、喜望峰に到達。

(ちなみに、コロンブスは1492年にアメリカ大陸に到達している)

1497年:

 ヴァスコ・ダ・ガマ、喜望峰を抜けてインドへ向かう(インド航路発見)。

 この頃、地球規模で見れば、ヨーロッパ各国が世界の覇権を競って次々と非ヨーロッパ圏に進出し、大争奪戦が始まる。南アフリカも含めて、世界中のほとんどの地域がこれらの国々の覇権争いに巻き込まれ、植民地化されていった。ちなみにワインの歴史という視点でも、この時期にヨーロッパ人が新天地にワイン文化を持ち込み、いわゆる「新大陸(新世界)ワイン」が出来ていく。

欧米諸国が活躍した時代:

15・16世紀:ポルトガル・スペイン
17世紀:オランダ、その後イギリス
18・19世紀:イギリス(フランス)、その後ドイツなども活躍する
20世紀:アメリカ


1602年:
 
 オランダ、現在のケープタウンに、水や食糧の補給基地を目的に東インド会社設立。

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ヤン・ファン・リーベック,出典:Brief History of South Africa

1652年:

 オランダ人・ヤン・ファン・リーベックら80名がケープに上陸。南アフリカは、最初はイギリス人ではなく、オランダ人らによって開拓が進んでいくことになる。それから3年後の1655年、今から350年前に、今のケープタウンに最初のブドウが植えられる。ここに南アフリカワインの歴史が始まるのである。


次回に続く。

参考資料:

フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
■「南アフリカ」-虹の国への歩み(岩波新書) 峯 陽一 著
■「ワインの世界史」(中公新書) 古賀 守 著

南アフリカの歴史(5):白人が来る前の南アフリカ②  

前回の続き。

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南部アフリカの地図(出典:Where to Stay in Southern Africa

もうひとつの先住民

バントゥー系アフリカ人

約1700年前から(西暦300年以降):

 もうひとつの先住民、バントゥー系アフリカ人の起源は、赤道周辺の農耕民で、1700年頃前から現在のモザンビーク(MOZAMBIQUE:上の地図の右上側の青緑色)やジンバブエ(ZIMBABWE:同地図の右上側のオレンジ色)からゆっくりと南下し、南アフリカにやってきて、ここで暮らし始めた。

 彼らはコイサン人よりも大柄で濃い褐色の肌を持ち、現在の南アフリカの人口の約8割を占める人達で、一般的に彼らは「アフリカ人」とか「黒人」と呼ばれている。

 アフリカ人は、コイサン人のように牛や羊の放牧や狩猟も行なっていたが、彼らとの決定的な違いは、鉄器や陶器を使い農耕を行なっていたことだ。アフリカ人の集落は5000人規模の都市的な集落もあった。


約1000年前:

 アフリカ人は、年間降水量20インチ(508ミリ)以上の土地(上の地図の黄色、オレンジ、赤色を含めて東側半分)の大部分を占拠するようになり、降水量が20インチ未満(上の地図のグレー、黄緑、青、紫色の西側半分)の土地では、農耕が困難なため、コイサン人が暮らし続けていた。

 アパルトヘイト(人種隔離政策)を行なった国民党(NP)政府時代の南アフリカの教科書には、「白人とアフリカ人は南アフリカの地に南北から同時期に到来した」という神話が書かれているが、実際はそうではない。ヨーロッパ人が最初にケープに来たのは500年前、定住したのは350年ほど前だ。


次回に続く。

参考資料:

フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
■「南アフリカ」-虹の国への歩み(岩波新書) 峯 陽一 著

南アフリカの歴史(4):白人が来る前の南アフリカ①  

south_africa_map.gif


前回の続き。


最初の先住民

紀元前数千年前:

 現代の南アフリカを含む南部アフリカ地域にはサン人(狩猟採集民)が住んでいた。彼らは薄い褐色の肌の小柄な人々で、舌打ち音(クリック)を含む言語を話した。生活は数十人の小集団を組み、植物の採集と小動物の狩猟をしながらの移動生活だった。
 
 サン人は、少ない労働時間でも十分な食糧を得る事ができた。例えば、1964年の調査では、ボツワナ(Botswana)のサン人の一集団は1週間に15時間程度の労働で、集団の構成員の必要カロリーを満たす食糧を調達できた。そして、余った時間を芸術活動にあてた。彼らの壁画は今でも南部アフリカ各地に残っている。豊かな自然の中で暮らす彼らの生活は、今よりももっと豊かだった。

(サン人の写真や壁画を見たい方はこちらのサイト→http://www.drakensberg-tourism.com/bushman-rock-art.htmlまたはhttp://www.southafrica.info/pls/cms/cm_show_gallery?p_gid=2306&p_site_id=38) 


2500年程前:

 コイコイ人(牧畜民)の生活様式が北方より伝わる。家畜(羊や牛)という私有財産を持つコイコイ人の間ではより多く持つ者と持たない者の間で貧富の差が生まれた。コミュニティは1000-2000人規模の集団で首長国も誕生した。彼らは牧畜のおかげでサン人より確実に食糧を調達できたが、牧畜生活の方が狩猟採集生活より多くの労働を必要とした為、コイコイ人はサン人ほど芸術活動に力を注がなかった。

 サン人とコイコイ人は容姿が似ていた為、両者を合わせてコイサン人と総称される。昔、「ブッシュマン」という映画があり、ニカウさんという主人公がいたが、そのニカウさん達が今日ではコイサン人と呼ばれる(「ブッシュマン」という呼び名は「非文明的で発展段階が低い」ということを連想するので、今ではあまり使用しない)。

 ヨーロッパ人がやってきたのは、今から約500年前のケープタウン(Cape Town)の辺り。当時はそこにコイコイ人が住んでいた。

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出展:South Africa Alive with Possibility

次回に続く。

参考資料:

フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
■「南アフリカ」-虹の国への歩み(岩波新書) 峯 陽一 著

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