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南アフリカの歴史(8):植民地化と人種主義③ 

前回の続き。

移民と奴隷

 オランダ東インド会社にとってケープの地は、最初は新鮮な水や食糧を確保する補給基地でしかなかったが、次第にここに定住しようとする白人入植者が増え始める。ひとつにはオランダ人は、コイコイ人から牛などを交換してもらおうと考えていたが、コイコイ人にとって牛は最も大事なものであり権力の象徴でもあったため、オランダ人が思うように分けてもらえなかった。そこで、オランダ人の必要な物を分けてくれる人が必要になってきた。

 1657年、会社は9人の従業員との契約を解除し、土地を与えて自営農業に従事させ、彼らから食糧を買い入れることにした。その後も会社は従業員を解雇し、また、オランダからも民間の入植者を受け入れていった。その多くは、本国では下層に属する人達だった。

Landungdunkel.jpg
出典:Brief History of South Africa

 民間の入植者の中には、オランダ人だけではなく、多くのドイツ人や少数のフランス人も含まれていた。フランス人の移民は宗教弾圧を受けてオランダに亡命したユグノー(新教徒プロテスタント)達であった。彼らは信仰心が厚く、現地のオランダ改革派の教義にも大きな影響を与えていく。そして彼らこそがケープのワイン産業の発展に大きく寄与していった。今でも地元のワイナリーには、ドイツ系やフランス系出身者も少なくない。また彼らは周囲と同化して日常的にオランダ語を話すようになった。

Castle.jpg
出典:Brief History of South Africa


 移民が増えるにつれて、ケープタウンはオランダ風の建物が立ち並ぶ賑やかな港町として発展していく。ここでは、白人入植者は実力主義社会で貧しい階層出身でも成功することができた。
 植民地の建設にあたって、多くの労働力を必要としたが、コイコイ人がそれを拒否したため、リーベックは東インド会社に依頼して多くの奴隷労働を導入した。その多くは、インドネシア、マレーシア、インド、スリランカ、モザンビーク、マダガスカルなどの地域出身で、アジア系が多かったが言語や宗教は様々であった。彼らは大抵は白人家庭に分散させられ、農作業や家事労働に従事させられた。ここでは貧しい入植者でも奴隷の主人となることができた。
 ケープの先住民であったコイコイ人も後からやってきた入植者達に土地や家畜を奪われ、ほとんどが奴隷となっていった。

 18世紀初頭には、奴隷の数は自由市民の数を越えていたにも関わらず、奴隷達は相互に分断されていた状態だったので、集団で体制に反抗することは難しかった。


次回に続く。

参考資料:

■「南アフリカ」-虹の国への歩み(岩波新書) 峯 陽一 著
CapeConnected

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  • [2007/03/06 01:36]
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