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南アフリカの歴史(9):植民地化と人種主義④ 

前回の続き。

シモン・ファン・デル・ステル Simon van der Stel

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シモン・ファン・デル・ステル
出典:Tripod

 1679年、2代目のケープ総督として、シモン・ファン・デル・ステルが赴任した。彼は地理学者や調査隊を連れてやってきた。そして翌年、10万本のブドウの苗をコンスタンシア地区植え、更に60km東に「ワイン生産に最適な土地」としてワイン産業の中心の街「ステレンボシュ」を建設した。ステレンボシュという街の名はステルという彼の苗字から来ているが、後に南アフリカを代表する美しい街になっていった。

 ステルは、ヤン・ファン・リーベックよりもワイン生産の知識も豊富で成功していく。これまでは、ブドウが成熟すると鳥に食べられるのを恐れて十分に成熟する前に収穫していたが、ステルはブドウの成熟をチェックする機関を作り、各畑を訪問して熟成をチェックし、十分に完熟してから収穫するように指導して回った。

 1688年、フランス・ルイ14世の宗教改革による新教徒プロテスタントの弾圧(ナントの勅令)により、多くのフランスの新教徒(プロテスタント=ユグノー)達は隣のオランダに亡命する。それを知ったステルは、東インド会社を通じて少しでもワイン生産の知識がある農民をケープに移民してもらうように依頼し、1689年までに約200人のユグノー達がケープにやってきた。ユグノー達は、パールやフランシュック(フランス人の街という意味)に農地を与えられた。彼らはワイン生産の知識が少ないオランダ農民にワイン作りを教えていく。こうして、ケープのワイン生産は更に発展してくこととなった。ステルは、後に「南アフリカワイン産業の父」と呼ばれた。

 彼はまた、船旅で多くの船員が壊血病(ヴィタミンC不足が原因。当時は船員の半分くらいが船旅の途中で亡くなった。)などの病気になったため、ケープタウンに病院も建設した。

次回に続く。

参考資料:

■「Wines & Brandies of the Cape of Good Hope」Phyllis Hands & Dave Hughes著,Stephan Phillips(pty)Ltd.出版
■「The Complete Book of South African Wine」John Kench, Phillis Hands, David Hughes著, Struik Publishers出版
CapeConnected

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コメント

通りすがり様

コメントありがとうございます。コンスタンシアワインが世界的に有名になるのは18-19世紀頃です。日本では江戸時代、オランダと貿易をしていた為に南アフリカワインが日本にも入って来ていたのは面白いことですね。

江戸時代、長崎の出島で商館長が、ワインを奉行に振舞ったという記録があります。その名も、「コンスタンシア」。南アフリカワインは、今まで日本人に馴染みが薄かったのですが、ほんの僅かに過ぎないとはいえ、日本に持ち込まれ、これまた極一部の日本人に飲まれていたのですね。
出島の絵巻物に、日本人とオランダ人がワイングラスを片手に談笑している図柄がありますが、これも南アフリカワインでしょ。

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